弁護士吉田孝夫の憲法の話(37) 古い全体主義と新しい全体主義(2)

そもそも、民衆が政治に参加する前には全体主義は存在しません。江戸時代までは、武士は、主君のために命を捨てるというようなことはありましたが、一般民衆は、そんな意識は持ちようがありません。明治から昭和の初期までの間に、国民のために国があるのではなく、国=天皇のために国民があるという全体主義・国家主義の教育が国のすみずみまで行き渡りました。日本国憲法の下でも、全体主義が消滅したわけではなく、少しずつ勢力を増してきました。2000年に森喜朗首相が、日本は天皇を中心とする神の国であると言ったことも、その現れです。
 それとともに全体主義をささえる新たな思想が現在、世界的に勢いを増しています。それが新自由主義の思想です。「新」が付いても、自由主義と全体主義がどう結び付くのか、理解がむつかしいと思います。
 新自由主義は、シカゴ大学のミルトン・フリードマンという経済学者の名前に結び付けられ、シカゴ学派という学派とも結び付けられています。ひとつの経済学説に過ぎないものが、1970年代以降、全世界に浸透しました。簡単に言えば、あらゆるものを市場で自由に競争させれば、強いものが生き残り、弱い者は消え、それによって最高の経済効率を達成できるというのです。これは、市場原理主義とも呼ばれます。新自由主義が出現する前の経済学には、企業の自由競争はありましたが、何でもかんでも競争させるという考え方はありませんでした。新自由主義のスローガンを列挙すれば、どれかは聞いたことがあると思います。それは、自由競争市場、規制緩和・撤廃、民営化、勝ち組・負け組、自己責任、グローバリゼーション、サービス貿易の自由化、自由貿易協定などです。
 新自由主義で最も大きな問題は、正義とは経済効率であるというように、言葉の意味が変わり、個人の尊重も希薄になってしまうことです。