日蓮の立正安国論と創価学会・公明党の選挙運動の矛盾 自公政権の立武安國論・立核安國論
日蓮は、今から763年前の1260年、「立正安国論」という書面を、時の最高権力者とされる北条時頼に提出しました。
創価学会は、公明党の支援活動をすることが立正安国のための活動だと言って、会員を選挙運動に駆り立てています。しかし、創価学会員は、ほとんど立正安国論に何が書いてあるか理解していないと思います。
自民公明政権は、今年、軍事費を飛躍的に拡大する予算を成立させました。この政権を支持すること、公明党を支援することは、立正安国論の趣旨に合致しているのでしょうか。
日蓮は、題目を重視します。法華経(妙法蓮華経)の題目を唱えることを修行の肝心としているくらいです。その対比で言えば、日蓮が「立正安国論」と題した文書の肝心は、その題目にあり、本文は、その説明だと捉えるべきだと思います。
ところで、日蓮自筆の立正安国論は、2通が完全なものとして現存しています。立正安国論を紹介した出版物には、その題目を「立正安國論」としているものがありますが、日蓮自筆の立正安国論の題目に使用されているのは「國」ではなく「国」です。立正安国論には、国を表す文字として、「国」、「國」、くにがまえに民の3種類の字を使い分けています。現存する2通の立正安国論の題目の字が「国」であるのは、偶然ではないと言わなければなりません。
國の字は、国の正字とされています。国は略字又は俗字です。だから「立正安國論」と表記するものがあるのです。それなのに日蓮が立正安国論の題目に正字の國の字を使わなかったということは、意識的に國の字を避けたと見られます。元の題目の字を変えるのは、日蓮の意図を変えることになります。そこで、次に考えなければならないことは、なぜ、國の字を避ける必要があったのかということです。
國の中の或には、武力で領土を守る意味があります。日蓮は、国を武力で守るという考え方を排除するために、國の字を避ける必要があると考えたものと推測されます。武力による平和という考え方を容認するのであれば、國でも差し支えなかったはずです。國の字を避けたのは、立正安国論は、武力による平和という考え方を容認しないという意味だと理解されます。。
法華経の思想というのは、現実社会の変革をめざす思想です。そのため、法華経には、迫害を受けるであろう事も書かれています。日蓮は、武力に依らずに法華経の思想によって平和を実現することを目指したのだと思います。
19世紀のドイツの法学者イェーリングは、「権利のための闘争」という本の中で、「法の目的は平和であるが、それに至る手段は闘争である。」と書きましたが、その闘争は武器を持って戦うことではないのは勿論です。
武力は平和のために必要不可欠な手段でもなく、最善の手段でもないというのが立正安国論の立場だと考えられます。
公明党は自民党と共に政権を握っており、立正安国論とは正反対の政治を目指していると言わざるを得ません。したがって、公明党を支援することは立正安国に反することになります。
追記 2023.4.13
日蓮の不戦思想に関しては、松岡幹夫氏の労作「日蓮における平和の思想と実践」(「現代思想としての日蓮 」2008年所収)があります。
ただ惜しむらくは、松岡氏が創価学会、公明党の現実に妥協されていることです。
追記 2023.8.6
本年5月19日から21日までG7広島サミットが開催されました。その「成果」として、「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」なるものが発表されましたが、「ロシアのウクライナ侵略の文脈における核兵器の使用の威嚇、ましてや核兵器のいかなる使用も許されないとの我々の立場を改めて表明する。我々の安全保障政策は、核兵器は防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、戦争及び威圧を防止すべきとの理解に基づいている。」というのは何でしょうか。「ロシアの」核兵器の使用の威嚇、使用は許されないというのは、ロシア以外の国の核兵器の使用は許されると言っているようなものですし、核兵器は防衛目的のために役立つものであり、戦争の抑止力が認められると明言しています。
これは、立正安国論ではなく、それとは正反対の立武安國論、立核安國論です。世界がそのような思想を信奉している限り、平和は遠のくばかりだと思います。