弁護士吉田孝夫の憲法の話(2) 明治憲法対教育勅語
近代以降,憲法は世界に普及しました。人権保障のためには,政府が勝手なことをしないように,憲法という法を作って,政治に関わる者を全て憲法に従わせるべきだという立憲主義の理念が世界の常識になったからです。つまり,憲法によって立憲主義が認められるのではなく,立憲主義によって憲法が成り立つという関係です。
この意味で,憲法の源をたどれば,1215年のイギリスの「マグナ・カルタ」に行き着きます。これは「大憲章」と訳されていますが,イギリスの諸侯(バロン達)がジョン国王に迫って,教会や諸侯や国民の権利を認めさせ,署名させた証文です。それを日本の江戸時代に当てはめれば,諸藩の藩主が集団で将軍に迫って,将軍の権限を縮小する証文を書かせたようなものです。
政治を行う側にとっては政治が憲法によって制約されるという立憲主義の原理は邪魔なので,明治政府は憲法制定後も,国民があまり人権を主張しないように策を練りました。
その最も重要な策が,憲法制定の翌年1890年(明治23年)に発布された教育勅語でした。その内容は,天皇が神の子孫であるということから始まり,儒教的道徳を並べた上で,「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」,つまり,戦争が起こった時には,国民は皆,天皇のために命を捧げて勇敢に戦いなさいというものです。これによって,国民は小学校の時から,天皇が神様であるという思想をたたき込まれました。
それにもかかわらず,大正の時代には天皇は低能だといううわさが一般に流れていたので,天皇が神様だという教育は成功せず,大正デモクラシーと呼ばれるような社会現象も現れました。教育勅語が,本当に効果を発揮したのは,聡明と言われた昭和天皇が即位してからです。