思想としてのイスラエルのジェノサイド ユダヤ教・キリスト教・仏教
イスラエルはどうしてパレスチナ人に対して、良心の痛みを感じることなく、難民を集めておいて、そこを爆撃し、住居や学校や病院や国連の避難所等を破壊して居住を困難にし(ガザでは既に建物の50パーセント以上が破壊されたと言われています。)、生存に必要な食料の搬入や水の供給を妨げて飢餓状態、不衛生状態に置き、無抵抗の女性や子ども達を殺害し、多数の大人を拘束して拷問し、非道の限りを尽くすことができるのか。
西欧の相当の知識人と思われる人がどうしてイスラエルのパレスチナ人迫害を非難しないどころか支持しているのか。
これには西欧のユダヤ教的、ユダヤ教から派生したキリスト教的、神学的伝統の影響が少なくないのではないかと思えます。
碧海純一「新版 法哲学概論〔全訂第2版〕P268以下に、トマス・アクィナスについて、次のような解説がありました。
「ギリシャ哲学、とくにアリストテレス哲学をキリスト教神学の中に組み入れ主知主義的自然法論を展開したのがトマス・アクィナス(1226~1274)である。神の絶対的力とコスモス的秩序の緊張関係は、プラトンのイデア論をキリスト教神学に導入したアウグスチヌスに既にみられるが、トマスの自然法論においては、アリストテレスの目的論的形而上学を基礎としたコスモス的秩序の思想がキリスト教の主意主義的な神観念を背後に押しやり、永久法という主知主義的な観念が優位を占めている。」
同書には、旧約聖書の十戒と神の命令との矛盾について、トマス・アクィナスの次のような言葉が紹介されています。
「ところで十戒は神なる立法者の意図そのものを含んでいる。つまり神に対する態度を規定した第一表の掟は、普遍的で窮極的な善である神への規定を含み、第二表の掟は人間の間で守られるべき正義の規定、つまり不当なることは誰に対しても為されるべきでないとか、各人には各人に相応しいものが与えられるべきであるといったことが規定され、十戒がこのような意味で理解されるべきであれば、それらは全く特免不可能と考えるべきである。・・・・十戒では殺人は不当なるが故に禁じられており、従ってこの掟は正義の根拠を含んでいる。それ故人定法は人間が不当に殺害されることを正当なこととして認めることはできない。しかし犯罪者や国家の敵が殺害されることは不当ではなく十戒に違背するわけでもない。この種の殺害(occisio)はアウグスチヌスも述べる如く、十戒で禁止されている殺人(homicidium)ではない。同様に、ある人の所有物が他者により奪われたとしても、それを失なうことが正当なのであれば、これは十戒で禁止されている窃盗とか強盗にはならない。それ故、イスラエルの子らが神の命令に従ってエジプト人の戦利品を奪い去ってもこれは窃盗ではない。彼らにとりこの行為は神の命令により義務となるからである。同様にアブラハムが息子を殺害することに同意した場合も、殺人に同意したことにはならない。生と死の支配者たる神の命令により息子を殺すことはむしろ正しい行為である。・・・・同様に娼婦や姦婦と交ったホセアも、婚姻という制度の創造者たる神の命令により彼のものとなった女と交ったのであるから、姦通とか淫行を行ったわけではない。このように十戒はそれに含まれる正義の根拠に関しては不可変であり、ただ個々の行為への適用を通じて特殊の限定を受ける場合に、つまりあれこれの行為が殺人や窃盗や姦通になるか否かに関しては可変的なのである。」
このようなトマス・アクィナスの言葉をパレスチナで現在起こっていることに当てはめれば、その恐ろしさが実感できるように思います。このような論理に従えば、理性によって、神がパレスチナ人を殺すように命じていると判断される場合には、パレスチナ人を殺すことが善になるのであり、それは殺人ではないということになります。
イスラエル政府が大量殺戮の正当性、正統性の根拠は旧約聖書であり、そこにキリスト教との共通点があります。
昔、天皇制の下で、天皇は現人神であり、日本人は「天皇の赤子」であり、外国人とは違うと教え込まれた日本の「皇軍」が中国で「蝗軍」と呼ばれたことと共通するものがあるように思われます。その時、日本が戦争の正当性、正統性の根拠としたのは、古事記、日本書紀でした。
要するに、イスラエル政府を支持している人々(「ユダヤ人」とか「イスラエル人」と一括りにするのは間違いです。)は、相当の教養を備えた人も含めて、パレスチナ人を自分と平等な人間と見ていないのです。それは仏教の平等思想とは異質です。もっとも、仏教の平等思想も思想としての力を失っているのではないかという疑いがありますが。