弁護士吉田孝夫の憲法の話(3) 軍国主義への道

1935年(昭和10年),美濃部達吉の天皇機関説は天皇に対する不敬であるという非難の声が高まりました。それを扇動したのは軍部ですが,その結果,明治憲法を立憲主義的に解釈する学説は犯罪とみなされ,天皇神権説だけが公認されることになりました。
その2年前,清沢洌(きよさわきよし)という人が,「非常日本への直言」という本の「序に代えて わが児に与う」の中で,次のように書いています。
「お前はまだ何にもわからない。が、お前の今朝の質問がお父さんを驚かした。この書の校正ができあがって、序文を書こうとしている朝である。お前は『お父さん、あれは支郡人じゃないの?』と、壁にかけてある写真を指して聞いた。『ウン、支郡人ですよ』と答えると、『じゃ,あの人と戦争するんですね』というのだ。
『お父さんのお友達ですから戦争するんでなくて、仲よくするんです』『だって支郡人でしよう。あすこの道からタンクを持って来て、このお家を打ってしまいますよ』
お前のいうことを聞いていて、お父さんは思わず憂欝になったんだ。お前は晩生れの七歳で、まだ学校に行ってはおらぬ。
(中略)
『どこから支那人は日本人をタンクで打つと教わったの?』と、お父さんが聞くと、お前は得意そうに肱を張って『教わらなくたって知っていらア、チャンと雑誌で読むんですもの』と答えたのだった。
なるほどよめた。雑誌社の好意で寄贈してくる少年雑誌などの絵を見て、お前は自然に時代の空気を感受してしまったのであるらしい。」
時代の空気は恐ろしいものです。清沢は外交評論家として,反戦の立場を明確にしていました。その家庭で親子の断絶が生じるのです。現在の空気は,その頃の空気に似ているように思います。