弁護士吉田孝夫の憲法の話(4) 明治憲法体制の崩壊

明治時代の日清戦争,日露戦争という2度の戦争に勝利して,日本は中国の北東部(満州と呼ばれる地域の一部)に権益を確保し,その維持のために日本軍を駐留させる権利を得ました。その後は日本は韓国を併合し,日本全体に,韓国や中国を蔑視する風潮が強まり,日本人が中国や朝鮮半島で傍若無人なふるまいをした事実は否定できません。

昭和初期に始まった世界大恐慌の不況の波が日本を覆っていた1931年(昭和6年)1月,松岡洋右は国会で,満蒙(満州とモンゴル)問題は日本の存亡に関わる問題であり,日本の生命線であると主張しました。

同年9月,日本は謀略により中国との戦闘を開始し,満州全体を占領して,翌年3月,傀儡政権による満州国を建国しました。これが発端となって,1933年3月,日本は国際連盟を脱退し,1945年(昭和20年)8月の敗戦まで,戦争に明け暮れることになりました。

戦時体制のためには,人権などにかまっていられなくなります。1938年(昭和13年)の国家総動員法では,政府は戦争遂行に必要な物資や労働力を強制的に国に供出させる命令を出せるようになりました。治安維持法は1925年に制定されましたが,思想犯の取り締まりのための拡大解釈の限界が問題になり,1941年(昭和16年)に大幅に改正されました。それにより,およそ国策に反対する思想を一網打尽に取り締まることが可能になりました。明治憲法の人権規定は存在しないも同然になってしまいました。

政治の面では,国会議員は,戦争反対を言えば,天皇の統帥権を犯したことになるので議論ができず,又,国策に従わない裁判官は冷遇されて司法権の独立も危うくなっていましたから,敗戦を待たずに,明治憲法体制は,人権の面でも政治の面でも崩壊したと言っても過言ではありません。