日本には司法権の独立・法の支配がない 大阪国際空港公害訴訟等に見る最高裁のスキャンダル

明治憲法下の司法と日本国憲法下の司法
学校では、明治時代の児島惟謙大審院長が司法権の独立を守ったと教えられます。確かに児島大審院長は大津事件に対する政府の圧力に屈せず、その限りで司法権の独立を守りました。しかし、明治憲法下では、制度的に司法権の独立は非常に軽んじられていました。旧体制で司法権独立運動に関わった元裁判官丁野暁春、根本松男、河本喜与之著「司法権独立運動の歴史」(1985年、法律新聞社)には、その運動が具体的に書かれていますが、行政官庁である司法省の長、司法大臣は、検事局及び裁判所を監督し、更に、個々の裁判官の職務上及び職務外の行動まで監督する制度になっていました。そのような制度は、明治憲法も立憲主義に基づいているとすれば、憲法違反というべきです。その上、司法省と裁判所の人事交流で、司法省出身者が裁判所の要職を占めていたということです。
1945年(昭和20年)の敗戦によって天皇主権の明治憲法から日本国憲法に変わり、現在、一般の国家公務員には国家公務員法が適用されますが、裁判官には今でも官吏服務紀律が適用されると解釈されています。ただし、その第1条は、旧規定「凡ソ官吏ハ天皇陛下及天皇陛下ノ政府ニ対シ忠順勤勉ヲ主トシ法律命令ニ従ヒ各其職務ヲスヘシ」から「凡ソ官吏ハ国民全体ノ奉仕者トシテ誠実勤勉ヲ主トシ法令ニ従ヒ各其職務ヲ尽スヘシ」と改正されましたが、裁判官は官僚でなければならないのは自明だという意識が旧体制から引き継がれています。官僚というのは、上意下達の組織の構成員を意味しますから、それ自体問題です。このような環境の下で、裁判官と行政官僚との人事交流が現在でも抵抗なく行われています。なお、憲法は、官僚裁判官制ではなく法曹一元制を要請していると考えられますので、司法制度全体が憲法に適合しているのかという根本的な問題があります。

日本国憲法の制定と司法制度
新憲法の下で、司法は、最高裁判所を頂点とする体制に変わりました。司法権の独立(裁判官の独立)が明確になり(憲法76条)、上記「司法権独立運動の歴史」には、「司法権独立は、敗戦のおかげで主としてGHQの力によって達成されて、立派な独立した裁判所ができたので、今更司法権独立を論議する必要も興味もなくなったようにも思われるが、司法権独立運動の歴史を翻ってみるのもあながち無駄ではあるまい。」と書かれていますが、楽観的すぎると思います。
確かに、戦前の政権を握っていた人々の多くは公職から追放されたり、A級戦犯として処刑された人もいました。
しかし、戦争の最高責任者であった天皇は、何ら責任を問われることなく、象徴という地位を維持しましたし、治安維持法等により、戦争反対の言論を弾圧する一翼を担った裁判官は、戦犯にもならず、公職追放もされずに、新たな司法体制に横滑りで地位を維持しました。

裁判所法の制定と最初の最高裁裁判官の任命
戦後の司法制度改革については、西川伸一「最高裁のルーツを探る  裁判所法案起草から三淵コート成立まで一」(政経論叢 第78巻第1・2号 https://core.ac.uk/download/pdf/59298688.pdf )にまとめられています。
最高裁の最初の裁判官は裁判官任命諮問委員会の答申を受けて任命されることになりました。その流れは、裁判所法制定→裁判官任命諮問委員会設置→諮問委員会委員選出→最高裁裁判官候補者答申→片山内閣による15人の最高裁判事の選出→三淵忠彦を初代長官とする最高裁の成立となります。
この過程で、戦前の司法権独立運動のホープであった最後の大審院長細野長良は最高裁から排除され、司法権独立運動を担った判事も事実上、最高裁から追い出されました。他方、旧司法省官僚は最高裁に残り、最高裁事務総局は旧司法省の伝統を引き継いでいると言ってもいい状況です。旧司法省の人事課長だった石田和外は、最高裁の人事係長になり、最高裁長官にまで上りつめました。

砂川事件と田中耕太郎最高裁長官
1957年7月、米軍立川基地の敷地内にデモ隊の一部が立ち入ったとして逮捕された者のうち7名が、安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反で起訴されたました(砂川事件)。1959年3月、1審の東京地裁の伊達裁判長は、米軍駐留を違憲として無罪の判決を言い渡しました(「伊達判決」)。それに対し、国は最高裁に跳躍上告し、最高裁大法廷は、その年の12月に破棄差戻しの判決をしました。
国が跳躍上告をしたことにも、最高裁が短期間で破棄差戻しの判決をしたことにも、米国政府の意向が強く影響していたことが2008年になって発覚しました。ジャーナリストの新原昭治氏が米国の公文書館で関連文書を発見したことが発端です。当時の田中耕太郎最高裁長官は、米国の駐日大使と秘密会談を行い、裁判の見通しを語ったというのです。
憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と定めています。これは、司法権の独立を定めたものです。米国は砂川事件の利害関係人であり、その駐日大使が砂川事件について最高裁長官と秘密会談を行ったということは、日本の司法が米国の権力の介入を許し、司法権の独立が侵害されたということです。憲法で司法権の独立が定められたにもかかわらず、日本の司法権の独立は達成されていなかったのです。これは、司法の頂点に法の支配が存在しないことも意味します。

大阪空港公害事件と最高裁
2023年4月15日、NHK教育テレビで、ETV特集「誰のための司法か ~團藤重光 最高裁・事件ノート~」が放送されました。私が学生の頃は、司法試験の受験生の大半は、刑法学は、東大の団(團)藤教授の「刑法綱要」という分厚い本を勉強していました。団藤教授が定年で東大を辞められ、最高裁判事に就任されたのが1974年、私が司法修習生の時でした。最高裁判事は15人ですが、5人ずつ3組の小法廷に分かれています。団藤裁判官は、第一小法廷に属していました。テレビで放送されたのは、大阪空港公害訴訟の上告審が第一小法廷で審理され、審理の終わり近くで大法廷に回付された経緯ですが、今まで知られていなかった裏事情が、団藤裁判官が書き残していたノートによって明らかになりました。
第一小法廷では、住民が求めた夜間の飛行禁止を認めるという結論にほぼ達し、結審後、和解を試みたものの、和解成立の見込みがなく、和解を打ち切りました。その段階で国は敗訴を予想して最高裁に、最高裁判事15人全員で構成する大法廷への回付を求める上申書を提出しました。団藤裁判官のノートには、第一小法廷の岸上康夫裁判長から聞いたこととして、上申書提出の翌日、岸上裁判長らが長官室で協議していた際、村上朝一元長官から岡原昌男長官に電話がかかってきて、岡原長官が岸上裁判長に村上元長官と電話で話すよう促し、村上元長官は岸上裁判長に大法廷回付を要望したというのです。岡原長官も村上元長官も検事出身で旧司法省、法務省とのつながりが強く、外部からの裁判干渉です。団藤裁判官のノートには「この種の介入は怪(け)しからぬことだ」と書かれているというのです。しかし、団藤裁判官もその介入を容認して裁判長に一任し、事件は大法廷に回付されました。
私は、これは、大阪空港公害訴訟の帰結以上に深刻な問題だと考えます。司法権の頂点であり、法の支配の総元締めである最高裁に法の支配がなく、人の支配によって裁判が左右されたのですから、天と地がひっくり返ったような大事件、大スキャンダルです。しかも、後述の平賀書簡事件で、裁判干渉が問題になった後にもかかわらず、懲りない最高裁です。

日本の裁判官弾劾制度と司法権の独立
私が司法試験の受験勉強をしていた1969年、札幌地裁の長沼ナイキ基地事件について、担当の福島重雄裁判長に、同地裁の平賀健太所長は、国側の主張を認めるようにという内容の書簡を渡したということがありました。福島裁判長は、それを裁判官の独立を定めた憲法76条に反するものとして、裁判官会議に提示し、マスコミに報道されました。この件で、国会の裁判官訴追委員会は、平賀所長には不処分という白の決定、福島裁判長には訴追猶予という灰色の決定を下しました。これは、憲法に反する政治的な決定です。弾劾裁判というのは、裁判官の身分及び法曹の資格を失わせる大変な制度ですが、それが政治的な思惑で弄ばれるというのは、裁判官の独立を担保するために身分保障を定めた憲法78条の趣旨に反するはずです。
この点は、現在進行中の岡口基一裁判官に対する弾劾裁判に関して詳しく書きました。この事件も日本の司法権の独立、裁判官の独立がいかに軽んじられているかを示しています。弁護士会も憲法学者も、裁判官弾劾制度そのものが憲法違反ではないかという点に目を向けようとしません。日本の司法権の耐えられない軽さは長い歴史を引きずっているように思われます。

 

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